寝台の少女は、美しかった。

天田の目には廃屋としか映らぬような家の中、しかしそれでも、少年たちがこの少女を守り、慈しみ、出来うる限りのすべてをしてきたのだと言うことは見て取れる。
痩せこけ、薄くぼろぼろの外套をまとう二人に比べ、少女は古くはあるが小奇麗な夜間着を着て、今はもう血の気こそないものの、ふっくらとした頬をしていた。

少年たちは、音という概念を丸ごと、どこかに置き忘れたように物音一つ立てない。
シンジロウに縋る様に立つアキと呼ばれた少年は、震える指を伸ばして少女の頬に触れる。
まるで、そうやって撫でていれば生き返るとでも言うように真摯な横顔を見せて、指を滑らせる。
何度も、何度も。

天田も、勿論幾月も何も言えぬまま、いくばくかの時間が過ぎる。
ふう、と小さな溜息が天田の唇から漏れて、空気が動く。

「なぁ、頼みがある」
その空気に触れたせいか、身じろぎ一つしなかったシンジロウが天田を振り返る。
「俺たちは、金がねぇ。だが、ミキの…最後は、きちんと……」
言い切れなくなり、唇を噛む。乱れた呼吸を直そうと浅い呼吸を繰り返す。
アキがシンジロウを見上げ、初めて、天田を振り返る。

感情をすべて凍りつかせた無表情な瞳で天田を捕らえ、口を開く。
「ミキの為に、葬式を挙げさせてくれないか。金は、働いて返す」
瞳と同じ、感情を凍らせた声。美しいが、それだけの声で話す。
「コイツは、神様を信じてた。だから、最後くらいちゃんとしてやりたいんだ」
ブレもせず、滲みもしない硝子の欠片のような声で言い終えると、糸の切れた人形のように、床にへたりこむ。シンジロウはそんなアキを何も言わず抱き寄せる。

天田は目を閉じる。つい先刻見舞ってきた病気の母と同じような美しさを身にまとう少女。 死の気配をまとう女は美しいのだと、今日初めて知った。

「わかりました。お金はすぐに手配させましょう。もちろん、教会も」

言い終えた途端、叫び声に似た大音声。
吹雪の音にも似たアキの悲嘆の声は、いつまでも止まなかった。


*****


「ええ、名残惜しいのですが、雪が積もるといけませんから。ええ、ぜひ、また」
如才なく受け答えをして、笑顔一つ残して天田は豪奢な屋敷を後にする。
屋敷に残る人々は、ドアが閉じると、口々に天田の噂話に華を咲かせる。

天田家の当主であった母親が、長く患った後、息を引き取って数年が経った。
周囲の人々は、未だ10を一つ二つ過ぎたばかりの乾が、すでに当主としての貫禄と知識とを備えていることに驚き、褒めそやし、そして天田家の財産について興味の目を向ける。
天田は、そのすべてを完璧な笑顔で受け流して会食を終えた。

「ほんとうにこちらで宜しいのでしょうか」
気遣わしげな運転手に、チップというには多い額を手渡して、笑う。
「ええ、ホントは雪がすきなんです。傘もありますし、歩いて帰ります。……そちらのご主人には、門の前まで送って頂いたと連絡しますから、そのように」
優しげなのに有無を言わせぬ口調で言い、車を降り、傘を広げる。
本当は、その主人になど一瞬たりとも世話になりたくないのだとは、ちらりとも感じさせなかった。
少し前から降り始めた雪に溜息をついて、傘を広げる。
あらかじめ幾月に言い置いていた待ち合わせ場所まで歩く。
そのはずが、行く先に静まり返った冬の街中には似つかわしくない音を聞き、足を止める。

走り疲れた犬のような、途切れ途切れの吐息。
吐息の合間に聞こえるくぐもった声。

天田は、ためらうことなくその声のするほうへと進む。
細い路地から聞こえるのだと判断して、通り過ぎようとして何気なく視線を振り、そこで足を止めた。

明らかに酔っているとわかる男が下品に腰を振りたてている。
男と壁に挟まれるようにして、下肢をむき出しにして乱暴に揺さぶられている青年。
天田が久しぶりに見る青年の、色素の薄い短い髪が動きに合わせて揺れ、汗が額を伝わる。
彼は声が漏れるのを防ぐためか、手袋をした指を噛んでいる。しかしその表情には一片の快楽も無く、感情を凍りつかせた瞳は、天田に数年前の雪の日を思いださせる。

あの時と同じ、凍りついた瞳は、なぜか今の天田を無性に苛立たせる。
だから、声をかけた。

「何をしている?」

笑えるほど肩を震わせて男が振り向く。
「が…ガキが何見てやがるッ!さっさと行けッ!」
男は、片手は青年の腰に回したまま、空いている手を無様に振り回して追い払う仕草をする。
「この辺り一体は僕の土地です。下品なことはここではして欲しくないな」
降りしきる雪ほどの冷たさで天田は言い捨てる。傘を放り、路地に立てかけてあったデッキブラシを手に取ると、 男は殺気に当てられたか、そこでようやく青年から手を離す。慌てて下着をずり上げ、何事かをわめきながら、 路地から逃げ出した。

天田がデッキブラシを元の位置に戻す。それまで一言も発していなかった青年が、ようやく口を開く。
「こんなところで、何をしているんだ」
「それは、僕の台詞でしょう。久しぶりに会ったと思えば、そんな醜態を晒して。何をしているんですか」
へたり込んだ青年の太腿に、血の混じった白い液体が伝って滴り落ちる。
「雪が降っているの、気がついてますか? 風邪を引きますよ。早く服を着て」
ポケットチーフを取り、流れる液体を拭う。汚れたチーフは丸めて投げ捨てた。
立ち上がり、服を直していた青年が手を止める。聞くと、少し口ごもってから、「…金を、受け取り損ねた」そう投げやりに言った。
天田はほんの少し眉をひそめてから身を返して、通りに向かう。 数歩進んで足を止め、僅かに振り返り「幾らですか?」と無感情に問う。
「貴方は僕が買いとります。行きずりの相手よりいい値段をつけますよ。おいでなさい」
青年は顔を伏せる。天田はその様子に焦れることも無く、穏やかな声で呼びかける。

「向こうに車を待たせてあります。暖かいですよ。」
声にあわせたように車のエンジン音が近づく。姿を見せない天田を幾月が探しに来たのだろう。

「今から、貴方は僕のものです。……行きますよ。アキヒコ」
拒否を許さない、人に命令することに慣れた声。

名前を呼ばれて、青年は身体を震わせる。
二、三度逡巡して、傘を拾って後を追った。


イズミ060926


モドル