屋敷の浴室は、これ以上無いほど豪華だと思った。が、家の主人が使う浴室はこのような粗末なものではなく、ここは使用人用なのだと、聞かされた。

ぼたり、ぼたりと滴り落ちる水音だけがアキヒコの耳に煩いほどに響く。
先刻からひっきりなしに漏れる女の悲鳴のような高い声は誰が出しているのか、それさえ気付く余裕すらない。
辛うじて身体を支えていた右手から力が抜けて、未だ熱を保つ床のタイルに倒れこんだ。

「あれぇ、もう音を上げちゃう。こんなもんってことは、そんなに経験ないんだね?」

びくびくと揺れる身体を前に、幾月は漸く手の動きを止める。回していた左手を解き、手にかかった雫を軽く振って振り払おうとする。
ごめんねぇ、体が冷えちゃうよねぇ、と軽い調子で言いながら、濡れた服に頓着せず、空いた手で手桶を掴み、アキヒコに頭から湯をかける。
「くぁっ……ぅ」
抵抗するでもなく、緩慢な仕草で頭を振るアキヒコ。
幾月はその姿を見て満足そうに唇を歪める、だが、人としての温度を感じさせない。
もう一度、傍らの風呂桶から湯を汲み上げる。
「あは、いいね。そういう感度と聞き分けのいい子は好きだよ。もうね、僕も年かな。悪い子にちゃんと言うこときかせるのは、結構面倒くさくてね」
今度は無防備な白い背中に湯をかける。
「あ、……ふ」
意味を成さない音だけを漏らす唇。寄せられた眉。きつく閉じた瞳。
それら全てを冷たく見下ろして、幾月は止めていた右手の動きを再開する。

「さて、ひどい癖もないようだし、仕事の説明をさせてもらおうか。聞いてるかい?」

最後の問いかけに合わせるように、アキヒコの内部に入れていた指を強く突きこむ。
もはや声も無く、痙攣に似た動きで逃げを打つ腰に幾月は唇を寄せる。
「困ったなぁ。ちゃんと聞いてくれないと、説明できないよ」
がり、とかすかな音に気付いて視線を上げた先に、アキヒコが右手を噛んで耐える姿がある。幾月の瞳に剣呑な光が宿る。

「傷はつけるな。もう、お前は主の持ち物だ」

身体を竦ませて目を開いたアキヒコに向かって、幾月は笑う。
「じゃ、右手も縛っておこうか?」

*****

屋敷に向かう車の中で、アキヒコはただじっと膝に置いた自分の拳を見つめている。
隣に座る天田は、ゆったりとリラックスした風に背もたれに身体を預け、運転席の幾月と二言三言、先刻の食事会について、会話をする。
「ああ、そうだ。幾月、おまえ、アキヒコを覚えてる?」
隣に本人がいるとは思えないような口調で天田が話を飛ばす。緊張したようにアキヒコが身体を強張らせるが、それには頓着しない様子で含み笑いを零す。
「そういえば、暫く振りにその名前を」
当たりのいい柔らかな表情で、口調で幾月が返す。

「かうことにしたよ」
まるでポケットチーフを一枚選び取るような気軽さで天田は幾月に告げる。

「今はまだ、在野の獣と同じだからね……ちゃんと振舞えるようにしてやって」
「かしこまりました。綺麗に洗って、それから、御前に」
アキヒコが眉を顰めるのを見て、天田はくすぐったいように笑う。首元のスカーフを止めている真珠のタイピンを外すと、膝に放り投げた。

「手付けは、これで足りるでしょう?残りは、僕を満足させてからお支払いします」

「俺は、お前に何をすればいい」
膝に落ちたタイピンを、アキヒコは握り締める。祈るように胸元に手を置いて、掠れた声で問うと、天田はさらに笑い声を上げる。

「綺麗な番犬が、欲しかったんですよ」

その言葉に、アキヒコは、自分は買われて、飼われるのだと、目を伏せる。
「到着したら、幾月に綺麗にしてもらうといいよ」
笑い声交じりのその言葉に小さく頷く。
それでもなお、自分にはしなくてはならないことがあるのだから、と。


イズミ080611


モドル