ふう、と明彦は溜息をつく。
きゅっと口を噤んで、胃の辺りを掴むようにして、また、溜息。
先程から、ちらりと真次郎を盗み見ては目を逸らす。気付かれないのに少しの落胆。
うつむいて、息を呑んで、踵を返して部屋へと戻る。

通路を折れ、明彦の後姿が見えなくなってから、真次郎は振り返る。

小さく舌打ちすると、後を追うように足を進めた。
「アキ」
ベッドにもぐり、丸くなって頭から毛布を被っていた明彦は身体をおおきく震わせる。
そっと伺うように、鼻先までを毛布から覗かせる。
「シンジ」
目じりに少しだけ涙を溜めて、上目遣いで見上げる。
真次郎は舌打ちをしそうになったのを何とかこらえる。
この表情をされるたびに助けていたのでは、明彦の為にならない…。そう思うものの、 結局はいつものように手を差し伸べてしまう。
「どうしたんだ、なんか、あったのか」
せめて声だけはと、不機嫌を装った声を作る。
「…なんでもない。なにもない」
その不機嫌そうな声に萎縮したのか、明彦は小さな声で返して、また毛布を被りなおす。
真次郎の胸の奥が焼ける。人には弱さを見せぬ明彦が、自分を頼りにするからこその子供じみた仕草なのは理解できる。が、頭の中の理解よりも先に感情は波立つ。

子供じみた友人に対する苛立ちと、自分だけを特別扱いすることに対しての安堵と、不調そうな明彦に対する気遣いと、すべてがない交ぜになって心はざわめく。

その感情を覆い隠すように乱暴にベッドの端に腰掛ける。きしんだスプリングに明彦は身体を竦ませる。隠れようとするのを許さず、毛布を取り上げた。
「や…!やだっ」
明彦は取られまいと毛布の端を掴んで身体を丸める。ぎゅっと目を瞑って、叱られるのを怯えるように。その仕草で真次郎はやはり何かあったのかと確信する。
「俺に言えないようなことがあったのか」重い刃のように冷たい声。
一心同体とからかわれるほどに寄り添っていたのに、言えないほどの事が?
「…きっと…言ったら、シンジが…」震える声。真次郎には語尾は聞き取れなかった。
「言ったら、なんだ?」
「……っ…」微かに唇を振るわせるのに、喋ろうとしない明彦に焦れて、手をやさしく伸ばして耳に触れる。
「…止め…!」
ふるふると身をよじりその手から逃れようとする。小刻みに震える身体は何かに耐えているように見えて、真次郎を落ち着かせない。なんとはなしに、本能が理由を探った。 膝の辺りを掴んで、強引に足を広げる。
「!!!!」
こんなことをされるとは思っていなかったのだろう。明彦は咄嗟のことに上 手く対応できず、口をパクパクとさせる。
「なんだ、たまってんだけか」
「な!な、何言うんだ!」
気を失わんばかりにあせっている明彦に、真次郎は微笑んで見せる。物言いたげに自分を見ているように感じたのは、気のせいだったか。気を廻しすぎたのかと小さく笑って、 ベッドから立ち上がる。
「悪ぃ。邪魔したな」
一歩を踏み出そうとして引かれる腕に立ち止まる。

「…どうすればいい?」

意味がつかめなくて一瞬固まる。
「そんなもん…」言いかけて、なんとなく続けられない。
「…シンジ…」
見上げる目。ああ、ほんとうにこの目に弱いと思い知る。
「…わかんないからやってくれとか、言うんじゃないだろうな…」
「そんなことは、べつ、に」
見る間に耳の先まで紅く染まる。その姿を見て真次郎の体温も上がる。
「誰かに教えてもらわなくても、わかんだろ、こんなことくらい」
言葉とは裏腹に、もう一度ベッドに腰掛ける。
声が少しかすれていて、笑い出したくなる。
明彦は失敗を見咎められた子供のような顔をして、不安そうに真次郎の目を覗き込む。 その視線を受けて、真次郎は明彦の顔の横に手を着く。すぐそばの体温を感じて、それだけで互いに息が上がる。触れ合う一瞬前、不機嫌そうな舌打ちを残した。


頬に優しい温度を感じて明彦は目を開ける。
「…起きたのか」数年前と変わらない不機嫌そうな舌打ちと声。
伸びた髪と鍛えられた体が、夢の中の彼とは違う。
「来てたのか、シンジ」
「骨、折ったのか」
「肋骨だ、たいしたことない」
「また、考えなしに突っ込んでいったんだろ…バカだな」
声色は優しく、頬を撫でる手は暖かかった。
その熱に引かれるように、そっと目を閉じる。
「お前の夢を見たよ」
「そうか」近づく声。
「子供の頃の手と、かわらないな」
あの時と同じ舌打ち。
「…うるせぇ。黙れ」
「…っ…」

上がる息も重なる体温も何も変わってはいないのに。
それなのになぜ、この手は遠くなってしまったのだろう。
身体の熱に掻き消える前の思考は、互いが等しく感じるものだった。


イズミ 060903


モドル