一人、ラウンジで過ごしていると、いつもの声。
「何、読んでるんだ、シンジ?」ひょいと後ろから手が伸びてきて、今まで読んでいた 文庫本を取り上げる。
「カフカ」作者名だけ言うと、ふぅん、と気のない返事が返る。文庫本が手の中に戻る。
「なんだっけ、前読んだな。ムカデに変わって死ぬ話」
盛大に端折っている上に違っているが、そんなところだと相槌を打つ。
「また読むのか?」いつもはすぐに興味をなくすのに、今日は中々離れない。
「違う話だ。これは橋の話」
「ふぅん」
相手をする気がないのがわかったのか、顔の前でひらひらと動いている手が静かになる。
迂闊に「離れろよ」などと言うと余計に張り付いてくるのはもう解っている。 それよりは気が済むまで背中に居ればいいと、幼馴染の手をそっと肩まで下ろすと、 もう一度頁を開く。

橋は、自分を渡る旅人を求めている。
ある日、待望の旅人を背中に感じ、橋は一目見ようと身を捩る。
数ページにしかならない短編。
最初に戻って一文字一文字噛み砕くようにしながら、活字を自分に取り込んでゆく。
読書は嫌いじゃない。
つかの間の逃避かもしれないが。

「ばかだな」
最後まで読みきったとき、不意に低い声がする。
白い指先が伸びて、文字を辿る。
「俺なら、なにがあってもこんなことはしないのに」
小さな傷跡がたくさん残った白い指。ラストを消し去るように、最後の一行を下から上へと こすり上げる。
俺は空いていた手を後ろに回して、頬を撫でる。
柔らかい髪が手に擦り付けられ、そして、頭が動いて、温かい舌に指先を舐められた。 指先で舌を突付くと、ちゅ、と湿った音を立てながら吸い付いてくる。
本を置き、目の前に投げ出されていた手をとり、同じように口に含む。指先を舐り、軽く 噛むと、鼻にかかったような声で一声、鳴いた。

「……サカるなよ」
揶揄って指先を引き抜くと、耳元に熱い吐息がかかる。
「シンジ……シャワー……。浴びよう……」耳の後ろに鼻先を押し付けるようにして囁き かけてくる声に、情欲と懇願の響きを見つけて、片頬だけで苦笑する。
「どうせ、後で浴びンだろう、先に部屋に行けよ」
「ン……」
小さく頷いて、触れていた体が離れる。
ふと、たった今読んでいた一文を思い出して、笑いがこみ上げる。
立ち上がり、振り向いて名前を呼ぶ。
「アキ」
手を伸ばして、指を絡める。 湿った指同士が、微かに音を立てて絡み合う。
「お前にぴったりだな」
僅かに潤んだ瞳で見上げるのを構わずに、手を引いて二階へ向かう。

                子供で、幻影で、追いはぎで、
ああ、確かに、こいつは。
                自殺者で、誘惑者で、破壊者だ。

そして俺は、多分、身を捩らずにはいられないのだろう。


イズミ061211


モドル