俺は、今まで桜ってただなんとなく綺麗なもんだと思ってた。
それだけじゃないって気がついたのは、数年前の春。
眠っていた友人に降り積もるように舞い降りた花びらが、無性に腹立たしかった。
そして今、俺のいる場所にはそよ風も吹いていないのに、50m程度先の桜は、盛大に枝を揺らして風に揺れている。
その風景は神秘的とか言うよりも、なんだか怖いばっかりで、まるで、俺を拒絶しているように見える。
そう言うと、目の前の人は、長い睫毛を震わせて瞬きをした。

「怖い、か?綺麗じゃないか、満開で」
まるで桜のように淡い色の髪が、振り返る動きにあわせて、揺れる。
それがまるで、目の前の景色に似て、俺には触れることの出来ない、何か違う世界の出来事のように見える。

「なにか、あったな。……桜の森、だったか?死体が埋まっているとか、なんとか」
大して興味もなさそうに(いやそれはいつものことだ)言葉が滑り落ちてくる。
「それ、一緒くたになってるでしょ。桜の森の下にあるのは、孤独ですよ」
どうでもいい些細な指摘に、薄く微笑む気配がして、誘われるように横に並ぶ。
笑みを残した視線を俺に投げて、唇の端を緩める。
「さすが、近代文学専攻なだけあるな」 その視線が、俺を通り超えたずっと先のなにかを見ていることに、俺は、とっくに気付いてる。
「真田さん、桜みたいですよねぇ」
短い髪に、離れるのを惜しむように絡み付こうとする花びらを、手を伸ばして払う。
いつでも自分の言いたいことだけを話す真田さんは、俺がそれに倣うとむっとしたような表情をした。
「俺は花じゃないし、花に喩えられるような女じゃないぞ」
「そんな、見た目じゃないッつーか……。イメージっすよ。 春が来たら、こっちが気付かないうちに満開になっちゃって、さっさと散っちゃってさ。 ……俺は追いかけたくても置いてけぼりで待ってばかりだ」
吸い込まれてしまいそうに綺麗で、冷たくて、それなのにどこか優しくて。俺には何一つ理解できない。 恐ろしいほどの潔さも、走り抜けるような変わりようも。

かすかに触れていたままの指先を、むっとした表情で払いのけられる。
「勝手なことばかり言うな。大体、お前だって俺のことなんか判っちゃいないだろう」
せっかく横に並んでいたのに、また一歩、先へと踏み出す。俺は、置いてゆかれぬよう、歩調をあわせて歩き出す。
「気分のままにぱっと咲いて、葉が茂って?そんな風に思っているならお門違いだ」
どこか寂しげに揺れる横顔に、俺は心を奪われる。
「変わろうとして姿を変えても、桜は桜だ。根を下ろしたその場所で、動くことなんかできやしない。ただ、そこにあるだけだ」

抱きしめて口付けたなら、その花は散らないのだろうか。

もう一度手を伸ばそうとして、躊躇する。
その隙に、とん、と軽い衝撃。真田さんが軽く握った拳が、俺の心臓の上を叩く。

「だから、お前が会いに来い」

どこか泣き出しそうな笑顔でそう言うと、真田さんは踵を返して駅の方角へとかけだす。
その足元で、ちり積もった花びらが小さく巻き上がる。

「いつだって……。会いに、行きますよ」
あなたが誰を思っていても。
あなたがどんなに遠くへ行っても。


イズミ080430


モドル