彼は「神様」と言うものを見たことは無い。だが、それに一番近い人間を知っている。


それは、彼がまだ小さな子供で、世の中と言うものは自分の家族と家族が住んでいる家だけで完結していると思っていた頃。
昼間、幼い兄弟達と遊んだ彼が体調を崩し、夜、熱を出して寝込んでいた。
その彼を母親は、悲しみともう一つ、幼い彼には未だ理解できない、暗い光を湛えた瞳で見下ろす。
喉の奥から絞るような溜息に似た声を漏らすと、「父」を呼ぶために走る。

熱に浮かされ、嘔吐を繰り返しながらも、彼は「父」を待つ。
「父」が本来の意味での父親ではないことは、兄弟皆分かっていたが、どんな時でも、自分たち家族の為に必ず駆けつけてくれるその男は「父」と呼ぶのにふさわしいと思っていた。
彼とその兄弟は、母が「父」を連れて戻るのを、息を殺すように待っている。
ややして、大きな足音が聞こえてくる。
「父」が来てくれた。
そう思って、彼は安心する。
大きな手で抱き上げられ、暖かく包まれる。頭を優しく撫でられて、緊張が解けた彼は意識を手放す。
どれだけの時間がたったのか、意識を取り戻した彼を、「父」は優しい瞳で見つめていた。

「お前の名前を決めたよ。『虎狼丸』いい名だろう。何にも負けない強い犬に育ちなさい」

そっと耳の後ろをなでられて、うっとりと目を閉じる。
『虎狼丸』の名の意味は理解できなかったが、「父」を主人とし、一生守ろうと、虎狼丸は幼心に誓った。

それから数年がたち、兄弟たちはそれぞれ離れ離れになり、母も他界した、ある夜。
虎狼丸の住む神社の前、参道の石畳の隙間から、黒いどろりとしたものが、吹き上げるように湧き出してきた。
うなじの毛が逆立ち、血が逆流する。本能が危険な敵だと叫び声をあげる。
自然と牙がむき出しになり、唸り声が漏れる。頭を下げ、いつでも飛びかかれるよう警戒態勢をとる。
そこで、思いがけない匂いが鼻腔を衝いた。虎狼丸は驚いて振り返る。

そこには、物音を聞きつけたのか、眠っていたはずの主人が呆然と立ち尽くしていた。

逃がさなければ。
敵は多分、人間を狙う。

それは直感以外の何者でもなかったが、虎狼丸が吼えるよりも速く、敵は動いた。
敵は主人の身体に絡みつく。虎狼丸は、幾本も伸びる触手の様な敵に立ち向かう。
飛び上がり、喰らい付き、引きちぎり、切り裂いた。
敵が、虎狼丸を邪魔者と判断したのか、数本の触手を腕のように形作り、狙いを定める。
「コロ…!」
敵の触手から逃れられるかに見えた主人が、虎狼丸を庇う様に腕を伸ばす。
無防備なその背中に、敵の触手が襲い掛かる。
主人の体が不自然に折れ曲がり、吹き飛ばされる。
手にしていた棒のようなものが虎狼丸の目の前に落ち、主人は参道の先、階段を転がり落ちてゆく。
虎狼丸は弾丸の速度で走りぬけ、主人の元にたどり着く。鉄の濁った匂いが立ち込める顔を舐める。
耳元で大きく叫ぶが、主人は僅かにも動かない。
涙を流せぬ赤い目を見開くと、耳を立て、階段を振り仰ぐ。ゆっくりと触手を伸ばす敵を視認すると、
腹の底からふつふつと怒りに似た力が湧き上がってくるのが感じられる。

力の衝動に任せ、息の続く限り、遠吠えを上げる。月を隠すように、三首の獣が天に現れた。



「よう、また会ったな」
シャツを着崩した少年が虎狼丸の前に現れる。虎狼丸は、最近知り合った彼が好きだ。
彼のポケットには、大抵好物が隠してあって、周囲に人の居ないとき、いつも食べさせてくれる。
虎狼丸はこの少年を見ると、ほんの少しだけ母親を思い出す。
体が弱く、いつも生死の境を彷徨っていた自分を見ていた母親。
あの時母の瞳に湛えられていた光は、自ら希望を持つことを禁じた者の眼差しだったのだろう。
虎狼丸は、少年がどうしてそんな瞳を持つようになってしまったのか、ほんの少し気にかかる。

「シンジ!見つけた!」
軽やかな足音と共に、もう一人少年が駆けてくる。
食べ物をくれる彼はシンジと呼ばれているらしい。シンジは小さく舌打ちをすると、あと少し残っていた煮干をさりげなくポケットに戻してしまう。
クゥ、と鼻声が漏れると、シンジは煮干の匂いの残る手で頭を撫でる。
「また今度な」そう言って立ち去ろうとして、足を止めた。
「おまえ、犬飼ったのか?!」と嬉しそうに駆け寄る少年に、姿ばかりは嫌そうに振り返る。
「アキ」
こちらの少年はアキと言うのか。虎狼丸は記憶に留めようと匂いをかぐ。輝くような笑顔に良く似合う、日なたに似た暖かい匂いがした。
「今、牛丼持ってるんだ、こいつ、食べるか?」
アキは早速しゃがみこんで、容器に入った食べ物を取り出そうとする。
「塩分もたまねぎも犬にはよくねぇよ。人間のモンそのまま食わせんな。ばか」
シンジはぎゅうぎゅうとアキの頭を押す。
その瞬間は瞳の暗い光が消えて、暖かいもので満たされている。
母親が、主人に甘えている間はこんな瞳をしていたのを思い出す。
アキという少年は、きっと主人のように暖かい手を持っているのだろうと思った。
「いっとくが、コイツは俺の犬じゃねぇ。じゃあな」
それだけ言うと、シンジは踵を返す。
「あ、待てよ、シンジ!」
アキは慌てて立ち上がろうとして、一瞬立ち止まる。
そっと手を伸ばして、虎狼丸の耳の後ろを掻くように撫でる。にこりと微笑んでから、跳ねるように振り返り、シンジの後を追って走る。
虎狼丸は、シンジとアキの残り香を吸う。思いがけず触れた指はやはりとても温かで、なんだか悲しくなりそうだと思う。
振っていた尻尾を下ろし、自分の後ろ足で同じ様に掻いてみた。

それから、虎狼丸は幾度と無くシンジから好物を分けてもらい、アキに撫でられた。
シンジの髪が伸び、アキの手にも傷跡が増えたが、二人のやさしい手は、相変わらず主人を思い出させた。

主人と呼べる人間は過去に居たあの人間だけだが、あの二人は、出来ることなら守ってやりたい。そう、虎狼丸は考えている。

夜に現れた敵は、それからも時折姿を見せていた。
だから、虎狼丸は夜が来る度、主人と歩いていた道を辿り、敵と戦っている。
主人があの時、最後に自分に残したものは、三首の獣と、小さな守り刀。
他の人間に見つかる前に、自分の寝床に隠した守り刀。いつしかそれを咥えて武器とし、戦うことを覚えていた。

耳を震わせ、目を開けると、道のそこここに水溜りが出来ている。敵の出てくる時間になった。そう感じて虎狼丸は立ち上がる。
耳を立て、鼻をひくつかせる。どこかに異常を知らせるサインは無いのか、注意して足を進める。

大きい。コレは、強い。

粘度の高い水音とともに、敵が姿を現す。それは今まで見たことが無いほど大きく、力を感じさせた。
行くか、退くか。躊躇した虎狼丸の鼻に、慣れ親しんだ匂いが近づく。
敵が現れる時間に動く人間はいないはず。それなのにアキの匂いが確実に近づいてきている。
このまま行けば、敵はまた、人を殺す。虎狼丸は走り出す。後ろからの不意を衝いた一撃。そこに賭けた。

分裂して襲い掛かる敵に幾度か攻撃を受ける。流石に手が足りない。
三首の獣を呼びたいが、呼ぶ隙を見つけられず、攻撃と回避を繰り返す。

「…シャドウかっ!」

目の前の敵に意識が集中していたところを破られる。アキが、小さな機械を耳に当て、何事かを話している。
敵もアキを認識したのか、半分ほどの数が方向を変え、人間を食らおうとアキへと腕を伸ばす。
倒れていた主人の姿を思い出す。もう、あんなことはさせじと遠吠えをする。三首の獣が現れ、怒りをそのまま熱に変えた様な炎を起こす。蒸発するように敵が消滅し、アキがあんぐりと口を開け、驚いた顔でこちらを見ている。

今度は、守れた。

そう思った瞬間、わき腹に衝撃を感じる。弱弱しくも残っていた敵が、最後の力を振り絞って虎狼丸の腹を刺し貫いていた。
衝撃で浮いた足を伸ばし、力を込めて体勢を戻す。首を巡らし、伸びた触手に噛み付き、引きちぎる。
ぶるぶると震える本体に鼻先を突っ込むようにして、深く食い破った。
分解されるように消えてゆくのを確認し、虎狼丸も道路に倒れる。
「おい馬鹿、死ぬなよ…!」
胃から熱い液体が逆流して、嘔吐した。傷の為か、体が燃えるように熱い。
見かけよりもずっと力強い腕で抱きとめられる。
「くそ、犬の止血なんてどうすればいいんだっ」
温かい腕で抱きとめられる。虎狼丸は幼い頃、よく熱を出していた時を思い出す。
あのときから随分時間がたち、主人はいなくなり、身体は大きくなった。

もし、次に目を覚まして、この少年が自分の名前を呼んでくれたら。

虎狼丸は閉じかけた目を開ける。目の前にあるアキの顔へ舌を伸ばして、頬を舐めた。


イズミ070424



モドル